第16回「水俣病記念講演会」における講師・原一男の発言について


水俣フォーラム 実川悠太


水俣病はチッソ株式会社と国・熊本県による共同不法行為の結果だが、誰にでも身近な不法行為といえば、自動車による交通事故だろう。しかし、この場合は被害者側にも過失があるのは珍しくないし、仮にそれがまったくなかったとしても、被害者、加害者の立場の互換性は存在すると考えなければならない。車にはねられたのが運転免許を持たない者であったとしても、自らの意志で車を利用する可能性がある以上、明日の加害者になり得ることを否定することはできないからだ。(以下、敬称略)

原一男に欠けていたもの

水俣病事件は違う。水俣病発生に際して被害者の側に過失はない。また、水俣病患者にさせられた者が、いくら時と場所を異にしたところで、環境汚染を媒介にした不法行為によって、チッソ(社員ではなく)株式会社に健康被害を与え得る可能性など、あり得ない。この意味で、水俣病患者もしくは産業公害による健康被害者という存在規定は稀な完全被害者と言い得る。

その上、加害者らによる文字どおりの共同不法行為によって、まるで厚かましい物乞いでもあるかのような扱いを十年にわたって受け続けることとなる。胎児性や劇症型でなくとも、生やさしい病苦ではない。不治の病は貧困を招く。それに加えての偏見である。心に刻まれた深い傷が少しは癒やされたのではないかと思えるような世間の理解は、原因の公認から半世紀近くが経過する今日に至っても得られていない。

まったく当人に責任のない事象によって、何十年にもわたって言葉に余る辛酸を舐めさせられてきた者が目前にいる。しかも、その事象を放置し続けてきたことによって実現した便利と豊かさの恩恵を自分も受けていることに気付いた時、人は配慮を尽して眼前の者をこれ以上傷付けたくないと願う。それが、リアルに罪深い人間≠ニいう存在に残された最期の救いともいうべき心性だと私は思っている。しかし、ドキュメンタリー映画監督・原一男にはそのような心性が欠けていた。

「紹介」された医学者の言説

今年の水俣病記念講演会の一番目の講師として演壇に立った原は、終了近く、元・熊本大学医学部教授・浴野成生の言葉を紹介した。水俣病による障害の重大性を訴え、問題提起したかったのだという。浴野は、水俣病の症状が末梢神経ではなく、大脳皮質感覚野の障害によることを明らかにした解剖学者で、岡山大学医学部教授の環境疫学者・津田敏秀と並んで、水俣病の医学的究明を有馬澄雄編『水俣病―20年の研究と今日の課題』(1979年、青林舎)から一挙に進めた功績は小さくない。

問題は、研究そのものの紹介(決して要を得たものではなかったが)にあるのではなく、この研究成果が示唆する重大な被害結果について、研究者自身が専門外の「文明論」的な意味付けをしたとでも言うべきところである。もちろん、浴野の研究自体はいくつかの水俣病に関わる法廷で、加害者・国による批判、反論にも耐えたほどの根拠を持つものだが、問題の言説を含む意味付けの方は、話を聞きに通って来る論理的思考が得意らしからぬ著名な映画監督への多少のサービスも兼ねた軽口ではなかったか。

しかし、水俣の記者が浴野に発言の真偽を尋ねたところ、否定したという。それを聞いた原は怒っていたというから、その真偽は判断できないが、問題の箇所だけを改めて読んでみると不快になる。

「人間の形をしていても中身は人間じゃない」という文節そのものが不快にさせるわけではない。私自身、言葉にせずともそう思ったことは何度かある。例えば自身と家族の苦境を晒し、とつとつと訴える患者に対して「わからない、できない、認めない」と無表情に答える官僚。「こんなヤツは人間じゃない」と誰しも思ったことがあるのではないか。しかしここで「人間じゃない」と言われたのは、「文化を享受できない水俣病患者は」である。

私はこの四十数年の間にたぶん百数十人を超す患者の方々とお会いしてきた。もちろん、その中には「文化」はもとより言葉にまったく反応できない方もいた。しかし、その人々はみんな極めて人間的だ。人の手を借りて食べ、そのようにして、そこにいる。言葉は発せずとも、視線は合わせられずとも、あらゆる機能を奪われようとも、人間である。それに疑問を抱かせるような存在ではなかった。だから悲しく、だからいとおしい。それがなんで「人間じゃない」のか、まったく理解できない。

「人間が人間たるところは他の動物より文化を持っている優位性」と語っている。こんな19世紀的な傲慢で脳天気なフレーズを久しぶりに聞いた。人間のみならず他の生命や地球環境への人間活動の不可逆的な破壊が明らかな現代においては、アメリカ先住民を悪者扱いした西部劇を今更作ろうという悪趣味とどれだけ違うのだろうか。

「(水俣病患者は)相手の意見を聞くという感覚が侵される」という。では、私の知る患者たちの大半は例外だというのか。チッソ幹部の言葉に対する川本輝夫や田上義春の切り返し、講演会や記者会見などでの質問や対談時の、杉本栄子や坂本しのぶ、緒方正人の受け答え、これらの見事だったことといったら。

「3人の水俣病患者の話」を一体何組何回観察したと言うのか。そもそも「3人」と日常生活を異にする者に、会話を理解する能力があったのだろうか。同じ共同体に暮す親しい者の会話は省略が多く、受け答えとして理解するだけの素養が観察者になかっただけではないのか。「相手の意見を聞」けなくなると「民主主義そのものが成り立たなくなる」という下りも笑わせる。だいたい、この国に民主主義が成り立っていたことがあるのか。

こんなレベルの発言に紹介者は強い興味を持ち「これこそ問題提起しなければならないと思った」と言っていた。「ゆきゆきて神軍」や「さようならCP」という傑作を作った者が、なぜこんなレベルの発言に、惹かれたのだろうか。

「謝罪すればいいだろう」という謝罪

原は言った。「自分の発言によって傷ついた患者には謝りたいと思う。しかし、浴野さんの研究を紹介したことは間違っていない」と。さらに「自由な表現、言論で傷ついた人がいたら謝らなければならない。僕は謝った。でも傷ついた患者の人ってまだ会っていない。なんかヘンだ」と言い放った(6月9日、水俣フォーラム事務所にて)。

確かに発言者当人にも、主催者である私たち水俣フォーラムにも、患者からの抗議はなかったし、来場者からの疑問の声は謝罪会見が設定された後の一通のメールだけだった。それほどのものとは思わなかった。それは、新聞のように紙面の制約から発言の一部を取り出すのではなく、全体を聞いていれば、聞き手を不快にさせる言説が発言者の差別的思想から来ているのではなく、無神経によることは明らかだった。だからこそ各紙が問題発言を報じた日、来場者2人から「あの程度であんなに叩かれるのはかわいそうだからフォーラムがサポートして」という主旨の電話が来ている。

5月12日の謝罪表明を目的としたはずの水俣記者会見も、原と同じ演壇に立った患者・緒方正実からの相談の電話で知った私が、原に勧めて開いたものであった。緒方は、福岡まで聞きに来てくれた知り合いの女性(数年前に東京から移住した方という)が、この発言を問題にしていることを受け止め考えていた。

自身が設定した謝罪会見にも原はカメラを持ち込んで記者の反発を買うに及んで、そこにいた別の女性は「(彼のやり方は)炎上商法なんじゃない」と後日笑いながら伝えてきた。記念講演会当日の講演前、今後の撮影への悪影響を避けるためにも誤解を招くことのないように、この講師にだけはクギを刺したが、それが却ってこのような発言を招いたのではないかと思ってしまうのが悲しい。

私は、水俣フォーラムは、恥かしい限りだ

私は、水俣フォーラムは、こんな不快な言説を広める機会を半月と置かずに作ってしまったわけである。今回の無神経な発言と、それをより際立たせた報道、ことに5月10日付熊日と5月22日付東京によって、いたたまれない思いをされた水俣病患者家族の方々には本当に申し訳ない。これまで水俣フォーラムを支えていただいた方々にも恥ずかしい限りだ。「敵」ではなくとも、近づいてはいけない人物だったことを見抜けなかった自らの浅薄が嫌になる。こんなくだらない発言を散らかすために私たちは活動をつづけてきたわけではない。

もうこの人に声を掛けることはないだろう。信頼できない人に対して肖像権の使用を許す者はいない。彼の水俣へのアプローチは映画を生み出せぬまま終りを迎える。十数年にわたって原が水俣に通った努力は水泡に帰す。生来、不自由な足を持ちながらプロデューサー兼つれあいとして原と活動をともにしてきた理知的な小林佐智子(退院できたのだろうか)の献身も、水俣関係におけるもっとも温かい原理解者とおぼしき医師・二宮正の友情も、原による水俣映画のために関西の元大学職員が提供してきた資金も、原が「本当にステキだと思った」という坂本しのぶの含羞の笑みも、すべて形を成せぬまま消えていく。


原一男講演採録の問題箇所

―前略― あ、あと6分ですか。それで、あの、皆さん、水俣病の病像論って聞かれたことあるでしょうか。私は熊本大学の浴野先生のところに通いまして病像論というものをかなり一所懸命勉強しました。結構難しいですよ。メチル水銀が体内に入ります。体内に入ったメチル水銀がどこに行くか、人間の体の中の。脳に行くんだそうです。脳の中の感覚を司るところの部位にメチル水銀が行きまして、そこを損傷するんだそうです。知ってましたか。そしていったん損傷すると二度と再生しないんだそうです。

そうすると感覚が侵された患者さん、たくさんいますわね。そういう患者さんはどういう実態か、というのを撮ろうと思うんですよ。それが脳が損傷されて感覚が麻痺した。じゃあどうなるんですか。非常にわかり易く言うとね、ある家の中で味噌汁を奥さんが作って、旦那さんが食べて味が薄い、もっと濃くしろと言う。奥さんが塩をいっぱい入れる。ある時お客さんが来て味噌汁食べた。しょっぱくて食えない、わかりやすく言うとそんなようなこと。これはね、味噌汁の話で、舌の感覚が侵されるダメージ。それが感覚全部なんで、耳、聴覚って音楽とか。視覚、これは視野狭窄になるんです。つまり、人間の感覚というのは、つまり人間が人間たるところというのは、文化を持っている優位性。他の動物よりはるかに高度な文化を持っている。

感覚は文化と直結する人間の部分なんですよ。それで浴野先生はよくよくおっしゃっていた。感覚が侵されるということは、つまり文化を受け入れる部分がダメージを受けるんであると。どういうことになるか。見た目は水俣病の患者さんは人間です。これは明らかに人間だ。だけど文化を享受するという感覚のない人はどういうことになるかというと、例えば3人水俣病の患者の人がある時話をしていると。それを浴野先生がそばで聞いていた。

みんなバラバラ、自分の言いたいことだけを言っている。3人が3人とも相手の言うことを聞いとらん。なんやこれはと思ったと。つまり相手の意見を聞くという感覚が侵されている。そうなるともう民主主義そのものが成り立たないというのが浴野先生の意見なんです。わかりますか。つまり人間の形をしていても中身はもう人間じゃなくなるんだよねというとらえ方、問題意識。で、こういうことに対して、敏感なのか、残念ながら日本人は鈍感です。海外の人は、民主主義が成熟してる国ほど、そういう事に対して敏感。 ―後略―

2017年4月29日、博多・光円寺における水俣フォーラム主催「第16回水俣病記念講演会」にて
採録責任:実川悠太

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